クラシード新横浜ってどんなところにあるの?

〇クラシード新横浜周辺の魅力をみてみよう

クラシード新横浜のある、みなとみらい地区では、
港町・横浜市の新幹線における玄関口となる駅です。

 

新幹線が通る前は「畑」であり、のどかな田園地帯でした。

新幹線も各駅停車の「こだま」。
しか停車しないという駅だった新横浜でしたが、
徐々に「ひかり」が停車していくようになり、
地下鉄の駅も加わって、2008年3月15日から
新幹線の全列車が停車する駅になりました。

駅周辺地区は、新横浜地区と呼ばれ、
横浜市における新横浜都心と指定されています。
みなとみらい地区近辺においても、遊園地や
多くのオフィスビル・ホテルが建ち並ぶほか、
横浜アリーナや日産スタジアムも存在しています。
観光スポットとしても若者に人気があり、
ホテルも多く立ち並んでいます。

そもそも周辺は鶴見川と鳥山川の合流する河川敷でした。

鶴見川が蛇行して流れていたため、大雨による
洪水が多かったと言われています。

今ではラーメン博物館や横浜アリーナ
横浜国際総合競技場などがあります。

〇鶴見区について知っておこう

鶴見区は、横浜市の最東端に位置しており、
鶴見川が蛇行して流れ、東京湾につながっています。
川崎市と横浜の間にあるような区で、
北に川崎市の川崎区・幸区、西には
港北区・神奈川区となっています。

海側では、大黒埠頭から横浜ベイブリッジで
横浜市中区へと続きます。

湾岸部は埋立地で、中心市街地は東部となります。
場所的には川崎よりです。

鶴見の歴史は、鎌倉時代のころから
「鶴見」という名前があらわれたようです。
源頼朝が鶴見で鶴を放ったからという言い伝えもあり、
そこから来ている名前ともいわれています。
別説では蛇行する鶴見川の地形から来ているという
説もあります。

横浜市の中では世帯数が港北区に次いで2番目
という統計も出ています。
外国人登録者数も横浜という土地柄か多いとされており
9000人を超えているとのことです。これは鶴見区、
人口に占める割合は約3%になっている
計算です。国籍別に見ると中国、韓国・朝鮮、ブラジル、
フィリピンという順番にこれらの国を中心とした民族が
多いようです。そのなかでも横浜市全体のブラジル国籍の
住民の4割は鶴見区在住という統計も出ています。

〇鶴見区の見どころスポットご紹介
森永お菓子工場

・・・鶴見区にはお菓子メーカーの森永の工場が
あり、予約申し込みにより見学をすることができます。
小学生や未就学の団体に人気で、お土産にオリジナルの
お菓子の詰め合わせがもらえたりします。
申し込みは2-3か月前には埋まってしまうような日程も
ありますのでネットなどで早めに予約するのが良いでしょう。

県立三ツ池公園

・・・ 鶴見川は満潮時には塩分を含んだ海水が
逆流してきたといわれています。
このようなことがあるため、近辺(生麦などの地区)
地区は鶴見川の水を田畑の用水に使うことが
できなかったといいます。
そのため灌漑用水地が必要となりこのうちのひとつが
三ツ池になります。
昭和32年4月に県立公園として指定されました。
春には、鶴見の桜の名所として人気が高いです。
宝泉寺台貝塚・上台北遺跡

・・・
宝泉寺台貝塚は上台遺跡とも呼ばれています。
縄文前期の貝塚でありながら
弥生時代の住居址が多く発見されています。

上台北遺跡も弥生時代の遺跡です。
ここから出土した
土器は有名で鶴見区役所1階ホールに展示されているそうです。

鶴見区は、横浜市の北東部に位置し、
ほぼ市街地となっています。
臨海部は工業地帯、中心部は商業・住宅地域です。
なかには住工混在地区もあります。

丘陵部は、自然が残された住宅地もあり、
工業地帯という昔の姿から、徐々に
商業、住宅が増えていったという遍歴があります。
鶴見においては、よく氾濫を起こす
鶴見川との戦いの歴史である、ともいわれます。

今では堤防も整い、暴れる川の姿は
抑えられている状態になっていて、安定して
います。昔は、東海道を通る人々も
ありまして、漁業も盛んでした。

明治には西洋野菜の特産地としてもにぎわい、
海苔の繁殖も行われるようになりました。

埋立が進み大企業の工場が京浜工業地帯としても
賑わいを見せ始めました。
鶴見のシンボルマークは横浜のYと鶴見区のTをあしらった
「船の錨(いかり)」をイメージしたものになっています。
配色はマリンブル、黄緑色と海と緑を象徴する
デザインになっています。

区の花はサルビアです。
赤いイメージの花であり、工業の街鶴見の
情熱的な赤色のイメージとしているようです。
区の木は百日紅です。
「きれいな花をつける木」、「花の咲く期間が長い」、
「管理も簡単で公共木として使いやすい」との理由から
選定されたということです。

〇有名な鶴見の生麦事件

幕末の動乱期に起きた外国人殺傷事件としては
鶴見の生麦事件が有名です。
歴史の教科書でも知っている人が多いと思いますが
簡単におさらいしておきましょう。
1862年、文久2年8月21日、生麦事件は
旧東海道の一漁村生麦村で起きた英国人殺傷事件
のことを言います。
現在は「生麦事件碑」が横浜市鶴見区生麦一丁目、
キリンビール横浜工場の一角に建っています。

この事件の犠牲者となった英国商人リチャードソンの
死を悼む歌が記されています。
この碑は、黒川荘三によって、1885年(明治16年) に
建てられたものです。

文久2年(1862年)、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父で
藩政の最高指導者・島津久光は、400人の軍勢を
引き連れて勅使大原重徳とともに江戸から京都へ帰る
時でした。

行列が生麦村に差しかかった時、騎馬の
イギリス人と会いました。横浜で
見物のため来日していたチャールズ・
レノックス・リチャードソン他3名などでした。

4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたらしいということや
観光目的でもあった、という説もあるようです。

行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から
行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、
身振り手振りで下馬し道を譲るようにと、
言ったのですがイギリス人たちは、「わきを通れ」と
言われただけだと思いこんだらしかったのです。しかし、
行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、
4人は行列の中を逆行して進む形になったといいます。

ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで
馬を乗り入れたところで、さすがにまずいと
思ったようですが、馬を降りるという発想には
ならなかったようでした。

「引き返せ」と言われたと解釈したようで
あたりかまわず無遠慮に動いたといいます。

その時、数人が斬りかかる状況となりました。

4人は驚いて逃げようとしたのですが
リチャードソンは重症を負い、桐屋という料理屋の前から
200メートルほど先で落馬して、とどめを刺されたといいます。
マーシャルとクラークも負傷し、ボロデール夫人には
「助けることができないから、
ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだそうです。

ボロデール夫人は
帽子、髪の毛の一部が飛ばされただけの無傷であり、
真っ先に横浜の居留地へ救援を訴えたといいます。

マーシャルとクラークは負傷のまま馬を飛ばし、
当時、アメリカ領事館として使われていた
本覚寺へ駆け込んで助けを求め、手当を受けたとされています。
この事件の処理は大きな政治問題となり、
そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こったと
いわれています。
〇池の竜の伝説がある鶴見区

二ツ池は、獅子ケ谷と駒岡に
竜についての伝説があるといわれています。

むかしむかし、武蔵の国に駒岡という小さな村があり、
三方が小高い山に囲まれているこの村は
その中に大きな沼がありました。

おいしい水が沼の周りから湧き出ており、
水が涸れることはなかったそうです。
また魚もよくとれるので田畑への水に加えて
良い供給源となっていたのでした。

ある夏の夕暮れ近く
どしゃ降りの豪雨となり、閃光が空を切り裂いたと言います。
村人たちは大沼のほうを見ると、
黒雲が恐ろしい勢いで沼の中に落ちていったそうです。

沼の水は渦巻き、大きな音がしました。
その後、荒れ狂った空がもとの静けさに戻り、
村人たちは、また、元通りの生活をし始めましたが
なぜか沼からは魚が1匹も釣れなくなったといいます。

月日がたち、
5年後に前と同じような状況が
再び起こりました。
大量の沼の水とともに竜巻となって舞い上がって
暗雲が沼をめがけて落下してきたといいます。

実は、5年前の嵐の日に沼に投げ込まれたのは子どもの竜で
あったことがわかり、5年の間に沼の魚を食べ過ぎて、
育ちすぎてしまって、雲に乗ることができずに
空から落下してしまったという言い伝えになっています。

もう一つは獅子ケ谷村に伝わる伝説があります。

池には竜神が住んでいたとされ、
めったに姿を現しませんでしたが、
出てこなかった。たまたま池に、石を投げた村人がいたところ
大荒れに天気が変わったといいます。
池の水が渦を巻いてその中から火を噴いた、上げた竜が、
池のふちの道を通る人を殺す、といわれるようになりました。

村人は池のそばを通るときに
石をおとさないようにとびくびくしていたといいます。

竜神を鎮めるために、毎年、12月になると、
村から1人、いけにえを捧げるようになったそうです。

竜神が暴れまわり、村が全滅するといわれていたからです。
いいなづけをいけにえに選ばれた蓑吉は、熊使いの名人で、
自分の将来のつれがいけにえになる話を聞いて
竜退治を申し出ました。10頭の熊を連れてすさまじい
闘いが繰り広げられたといいます。
しのつく豪雨の中に、ときおり稲妻が光った。
両者の戦いはいつ終わるとも知れなかったようですが
叫び声とともにばったりと、
竜が倒れ落ち、その竜の死体が
ひとつだった大きな池をふたつに分けた、と
言い伝えられているそうです。

なかなかいろいろな言い伝えのある地区ですね。